23年分の「ありがとう」を推しに
先月、一泊二日の弾丸台湾旅行に行ってきた。安室奈美恵さんのライブに当たったからだ。
彼女のファンであると、明確に自覚したのは、今から23年前になる。まだ自分が小学生だった頃だ。
彼女のカッコイイ楽曲と、カッコイイ姿に憧れ、小学校の卒業式は、ロングヘアーにアイロン(ヘアアイロンでなく、ガチのアイロン)を掛けてパンツスーツで臨んだ。
2次元・3次元と複数の「推し」がいる私だが、「安室ちゃん」は、私にとって歴史ある「別格推し」である。
この二十数年の間に、色んなことがあった。
ファンを公言すると、「今の安室って全然知らんわ笑」と言われるような時期もあった。
でも、安室ちゃんは、いつだってかっこよくて、凛として、自分の信じる道を進んでいるように見えた。
アイドルとして売れていった時も、世間的に「終わった」かのように言われても、再ブレイクしても、ぶれない芯のある人のように感じていた。
私が人生で嬉しかったとき、辛かったとき、いつだって傍に安室ちゃんの楽曲があった。
失恋したときも、結婚が決まったときも、昇進したときも、仕事の失敗に泣いたときも、
「こういう時に聞く安室ちゃん」というのがあって、その時々で様々な安室ちゃんの楽曲に支えられてきた。
二十数年間、一方的に安室ちゃんに色んな思い出があって、勇気や希望をもらってきた。
その間、私はやっぱり、安室ちゃんに「ずっとカッコイイ安室ちゃん」を求めていたと思う。
ずっとかっこよくいてほしい。なにものにも負けない、ぶれない安室奈美恵でいてほしい、と考えていたと思う。
実際、安室ちゃんは本当にいつだってかっこよかった。
去年、沖縄の最高に楽しいライブから数日後に引退を聞いたとき、あまりのショックに、すぐには受け入れられなかった。
自分を支えてくれている大きな柱の一つが崩れていってしまうように感じた。
雨宮さんの件もあって、「女性にとって40歳は、そんなにも大きな壁になるのか?」なんて、バカなことを考えてしまったりもした。
それでも、徐々に時が経ち、ラストツアーにも数度参加できたことで、やっと、受け入れられつつある。
私が参戦できたのは、ツアー初日の名古屋、4月の大阪、5月の台北公演だった。
ツアー初日の名古屋ドームでは、ファンに向けて話してくれたときの思いがけない驚きと、「本当に引退するんだ…」という実感が湧いた。
大阪ドームでは、席がかなり遠かったけれど、逆に全体が見れて、どんなに大きなステージで迫力あるパフォーマンスをしてくれているのかを感じた。
そして、台北。
以前のライブのように、ドームよりずっと小さな会場で、最初から最後まで歌って踊りまくる安室ちゃんを見て、もう胸はいっぱいになった。
「これが、私が観る最後の安室ちゃんライブかもしれない」と思うと、最初から泣けて泣けて仕方なかったけど、やっぱりライブ中は本当に楽しくて、夢のような時間だった。
ちなみに「最後、かもれない」という気持ちで観ることができて、良かったと今では思う。
まだ東京ファイナル公演の最終抽選が残っているときで、「でもまだ見れるかも」という希望を残しながら観れたことは救いだった。
もし「これが本当に最後」という状況でライブ参戦していたら、終わった後、自分が動ける自信が無い…。
そうしてゆっくり時間を掛けて引退を受け入れていく中で、安室ちゃんへの想いは、むしろいっそう募るばかりだった。
ファンへの感謝を込めた活動をしてくれていることを感じ、その度に、こちらの方こそ感謝の気持ちでいっぱいになった。
ファンクラブサイトの動画で自然な笑顔を見るだけで、胸が苦しくなるくらい、愛おしく思った。
「なんかやばいなこれ、恋してるみたいだな…」なんて思ったけれど、気づいた。これはもはや、愛の境地だ。
ずっと「かっこよくいてくれること」を求め、安室ちゃんを追いかけてきた。
今、求めることはもはや、安室ちゃんの幸せだけ。
いや、引退までにまだライブあるといいな、とか、CD出たらいいな、とかは思っていて、それは一種の求めていることではあると思うけれど。
でも、本当に、安室ちゃんが自由に幸せに生きてほしい。それだけ。
引退後、太ったって、変な男と結婚したって、なんだっていい。安室ちゃんが幸せだったらそれでいい。
引退も、その気持ちで受け入れられるようになった。安室ちゃんが決めたことで、悔いなく、この時期に引退したいと思ったのであれば、受け入れたい。
これって、もはや愛かな、って思ったのだ。
どんな風に変わったっていい。かっこよくなくなってもいい。ただ幸せを祈っている。今まで本当にありがとう、しかない。
23年応援してきて、やっとこの境地に立てた。私は、ただ安室ちゃんを愛してる。
ずっと、高いところで輝く一番星みたいな人。
到底届かないし、目標にすら挙げれないけど、道を明るく照らしてくれる人。
私にとって、安室ちゃんはそういう存在だ。これまでも、これからも、永遠に。
私と本と友だち【本屋さんのダイアナ感想】
本やマンガが絆を深めてくれた、大事な友人がいる。
学生時代ほど読書しなくなってしまったけれど、出張の際、文庫本を買って、移動中に読むことがよくある。すぐに感動して泣くタイプの私は、新幹線の席でひっそり泣いたりもする。
先日は、柚木麻子さんの「ナイルパーチの女子会」を読んだ。前情報が無く、爽やかな女の友情ものだと思って読み進めていたら、途中から恐ろしいストーカー物語化していき、登場人物みんな癖ありすぎて非常に戸惑ったものの、面白くて止まらなかった。
ただ、「今から学生の前でニコニコするぞ!」という仕事を控えて読むのに適していたとは言い難い。
そこで、今回こそは柚木さんの爽やかなやつを読もう、と手に取ったのが「本屋さんのダイアナ」だった。
ただ、これもまた、「爽やかな女の友情もの」とは、いえないと思う。
これは、本を通して友情を育んだり時に壊れたりする、二人の女性の、精神的な自立に向かう物語だ。
その中には、自分にも覚えがあるような、女性の生きづらさや苦しさ、傲慢さや甘え、それに女性である故に味わう理不尽さが、具体的に描かれている。思い出したくなくて蓋をした過去の経験が、フラッシュバックして辛くなるような場面もあった。
そして、読んでいる間ずっと、脳裏に浮かぶ一人の友人がいた。
ずっと読書が好きで、わりと国語が得意だった私は、大学で文学部に入り、そこで「自分よりもっとずっと本を読んでいる人」や「もっとずっと国語が得意な人」「もっとずっと文章が得意な人」に出会い、落ち込む時もありながらも、感動していた。
その中でも、私の大学生活を大きく変えてくれた友人がいる。
私は腐女子だ。
それは、大学に入る前から自覚していた。そして、「これは人には言えない趣味だ…」と思っていた。
いや、今も、特段積極的に言うべき趣味とは思わないけれど、恥ずべき趣味であると思っていたし、両親は、潔癖で性的なことを私から遠ざける傾向にあったので、なおさら「絶対に隠すべき趣味嗜好」であり、「自分はちょっとおかしいんじゃないか」と思うこともあった。
大学2回生のゼミで偶然一緒になった彼女は、1回生の時も必修科目で一緒だったので、「この中で唯一の知り合い」というだけで、なんとなく一緒に授業を受けていた。少し経った頃に映画を見に行ったりもしたけれど、それくらいの仲だった。
それが、読んでいる本やマンガの趣味が合うことが徐々に判明し、明確なきっかけは忘れたけれど、確か、漱石先生の「こころ」の話をしていた時。探り探りの会話によって、なんと、彼女も腐女子と発覚したのだ。「私、実はこういうのが好きで…」とBLを読んでいることを彼女に打ち明られ、大学構内で「私もー!」と喰い気味で打ち明けた。まるで運命の人を見つけたような気分だった。
それからすぐに彼女の下宿先に遊びに行き、勧められるがままに、初めて人の隣でBLマンガを読んだ。あの時のソワソワ感は、今も忘れられない。人の!隣で!このような本を…!と、ソワソワソワソワしつつ、彼女のコレクションを堪能させてもらった。それは、私にとって、初めて「こういうのが好きな自分でもいいんだ」と思わせてくれる経験でもあった。(いいのか?)
その後、2人で同じ本やマンガを読み合い、感想を言い合うごとに、急速に仲は深まった。やがて、初めて同人系のイベントに行ったり、アニメとコラボした遊園地に行ったり、ついには夜行バスで東京のコミケにも行った。今も2人で語り草にする0泊2日の恐ろしい強行スケジュールは、若さあってのものだった。
卒業してから、私は関西を離れたけれど、最初に一人暮らし先に遊びに来てくれたのも彼女だった。
学生時代ほど毎晩のようにはできないけれど、週末の夜にはメッセンジャーで会話することもあった。
さらに数年の月日が流れると、いつの間にかイベントには行かなくなった。メッセンジャーでやりとりすることもなくなった。共通の話題のアニメやマンガも、互いにずいぶん見なくなってしまった。
それでも。今もなお、会えば互いに、会わなかった間どんな本を読んだのか、マンガを読んだのか、アニメを見ているのか、学生時代のように語り合う。
やっぱり私たちの趣味は似ていて、会わない間に同じ小説を読んでいたりする。なぜか同じタイミングで、古いアニメを見ていたりする。そんなとき、あの大学で探り探りの会話をした時と同じように、「私もー!」と声を高くする。
共通の友人も増えて複数で会うことの方が多くなり、皆で会うと「現在の私のイチオシ」プレゼンが自然発生する。
大学を卒業して10年経っても、私たちの会話のメインは、ほとんど学生時代と変わらない。そのことを、「私達大丈夫か?」と本気で心配になる時期もあったけれど、30半ばとなった今は、学生時代のような会話をいつまでもできる友人の有り難さを身に沁みて感じている。
生きていると、色んなことがありすぎて、普通に会話していたら愚痴や不満だらけになりそうな時もある。ましてや、私達は、結婚してたりしてなかったり、働いてたり働いてなかったり、子どもがいたりいなかったりする。そんな中で、私たちには、何のしがらみもなく、共に分かり合えるものがあり、一瞬で学生時代に戻らせてくれるものがある。
もちろん、私は知っている。圧倒的に迫ってくる現実、年を重ねるごとにどうにもできない悩みが増えること、彼女もそれらを抱えていること。
時には、そういったことについて深く話すこともあるし、2人で泣いた夜もあるけれど、いつだって私たちの傍には大好きな本やマンガがあって、それらが私たちを励まし、楽しい世界に連れて行ってくれる。仕事も家庭も関係なく、私たちを出会った頃のままの会話ができるようにしてくれるのだ。
再来週にはギアス3作目が公開される。私たちは一緒に映画館に足を運び、10年前と同じように、もしくはそれ以上に泣くだろう。
私は、赤毛のアンシリーズは途中で読まなくなってしまい、「本屋さんのダイアナ」に出てくるその他の少女小説にも詳しくない。なので、出てくる書籍の内容を思い出すよりも、大切な友人の彼女と一緒に読んだ、多くの小説やマンガを自然と思い出しながら、「本屋さんのダイアナ」を読み進めていた。ダイアナや彩子にとっての「赤毛のアン」は、確かに私たちにもあって、そんな私たちの思い出も呼び覚ましてくれる小説だった。
彼と私のCookDo
離婚後、現在の彼氏との一歩を踏み出そうと思えたキッカケは、「CookDo」だった。
「恋は上書き保存」を地で行き、失敗すら上書き保存してずんずん進んでしまってきた私は、やっぱり結婚も失敗して早々に離婚した後、さすがにしばらく上書きできずにいた。
期間というより傷の大きさによって容量を増した「失敗結婚」フォルダの存在感は大きく、「私は誰かと人生を共にするということが出来ない人間なのではないか」と感じていた。
元夫と最もケンカの種になったのは、「家事能力」についてだった。
元夫は、手作りにこだわる人だった。市販の「料理の素」系を一切使わない「手作り」だ。
特にしんどかったのは、元夫は、私が、私の意志で、すき好んで、手料理を振舞うようになる、ということを求めていたことだ。言われて仕方なくとか、嫌々やるのではなく、「働きながらも積極的に手料理をする妻」になってほしかったのだ。
全くもって無理でした。
外食も嫌ならせめて簡単に作れるように、と私の母が買ってきてくれたCookDoを見て、「結局そういうのに頼るんだ」と冷たい目で言われたことは今も忘れられない。
ええやないか!簡単で美味しいやないか、CookDo!
と今なら思うが、その時の私は罪悪感でいっぱいになっていた。イマイチ上手に手際よく作れないこと、積極的に手料理したいと思えないこと。
とにかく根本的な「毎日の晩御飯」への考え方が違っていたのだ。彼の手料理要求に対し私は私で「こんなに忙しい私を慮ってよ‼」という要求をしており、話はいつも平行線だった。
直接の離婚原因が料理だったわけではないけれど、こういったことの積重ねが、私たちの結婚をしんどいものにしていったように思う。
そうして、私は自分に対する自信を喪失していた。
しばらく月日が経っても、「自分は駄目な奴」「誰ともうまくいかないのでは」という思いは消えず、定期的に飲みに誘ってくれる男性が現れて好意を示してくれても、「どうせうまくいかないのでは」と、踏み切れずにいた。
その定期的に飲みに行く彼と、恋人なのかそうじゃないのかな日々を続けていたある日、初めて彼の家に行くことになった。
休日の日中で、彼の飼っている犬が少し体を弱くしていて、外に出るよりも、家で一緒にご飯を食べよう、となった。
「うち、何もないけど…」と言って彼が取り出したのが、少しの野菜と、CookDoだった。
二人で野菜を切り、パッケージの裏を見ながら、切った材料とCookDoを炒める。その時、彼が満面の笑顔で言った。
「こうして一緒に料理して食べるの楽しいね!」
なんだか泣きそうになった。
確かに楽しい。美味しいし、楽しい。私たちは今、一緒に「料理」して、楽しく、ご飯を食べている。
人前で料理することが、いつしか怖くなってしまっていて、この時も「大丈夫かな、大丈夫かな」と思いながら野菜を切っていた。彼の言葉は、今の私にも過去の私にも「大丈夫だよ!」と言ってくれているようだった。
そうして、この人と踏み出すことを躊躇している今の私は、「もう傷つきたくない」「自分の苦手をさらしたくない」と、自分を守っているだけであるとやっと気づいた。最初の結婚で私に圧倒的に足りていなかったのは、料理の技術よりも、相手を思いやる心だ。自分のことばかりで、相手の希望を叶えたいという気持ちすらなかった。今も相変わらず自分のことばっかりで、全然目の前の人と向き合えていない。こんなに、私と一緒につくったご飯で楽しんでくれているのに。
それからさらに二年以上の月日が経ち、彼と結婚の話が出始めている。
未だに、自分が結婚に向いていると思えないし、主に自身に対する懸念が消えず、どうしようもなく不安になるときがある。だからこそ、彼との一歩を踏み出したあのときを思い出して、また前に進もうともがいている。
プリズムのきらめきある毎日
今期、1番ハマっているアニメは、宇宙戦艦ティラミスである。
正直、ティラミスが1番になるとは思わなかった。ペルソナも鬼灯も楽しく観ているのだけれど、なぜかティラミスが好きなのだ。
ティラミスを観ると、元気になれる。そしてその元気のなり方は、キンプリ(KING OF PRISMの方)を見て元気になる時の「元気」と似ている。
ちなみに、昨期盛り上がっていたポプテピピックの話を友人としている際も、「ポプテピを見てると、キンプリ見たときみたいに元気になれる」と話していた。
つまり、キンプリを観ると、元気になるのだ。
キンプリ(KING OF PRISM)は、異様な映画である。
年頃の男の子達が、キラキラしながらフィギュアスケートっぽく踊り、ジャンプしたかと思うと、いっそうキラキラしながら尻からハチミツ出したり、地球が黄色くなったりする。
観客は、映画館でよく揃った掛け声を挙げ、ブレードを振り回す。次こそは推しが勝つ!と信じながら。
しかし、キンプリは、実は根底に「努力と友情と成長」が流れている物語なのである。
キンプリを見る上で忘れてはいけないのは、そもそもの始まりに、可愛い女の子たちの成長物語があったことだ。
可愛い女の子たちが、やっぱりキラキラしながらジャンプして、花火を出したり地球を抱いたりするのだけども、女の子たちには様々な背景があり、友情を育みつつ、あくまで自分の問題には自分で向き合い、成長していく。
ほとんどの女の子たちは家庭環境に問題を抱えていて、その問題に立ち向かっていき、プリズムショーで才能を開花させる姿は、感涙ものである。
この女の子たちの物語に出てきたのが、キンプリにも出てきたOverTheRainbowの男の子たちで、女の子たちの物語最中、ときどき出てきては盛大に揉めていた。
そんな彼らが遂にOverTheRainbowを結成する姿は、本筋ではないものの感動せずにいられないので、ぜひ「キンプリは見たけど女の子たちの話は見てない」という方は、「プリティーリズム・レインボーライブ」で、オバレが結成するところまでだけでも見てほしい。(これは、プリリズ好きが勧誘の際よく言うセリフである。)
そうした歴史を引き継ぎながら、KING OF PRISMは公開され、今に至っている。
正直、私も一作目が公開された際は、何の知識も無かった。ただ話題に乗って見に行き、そこで「なんかえらいもん観た……」となったのだ。
あれが私にとって初めてのプリズムショーだった。
それから何度も映画館に足を運んだが、
二作目のKING OF PRISM -PRIDE the HERO-公開の際も、まだプリティ・リズムは観ていなかった。
それでも、一作目以上に、わけのわからない感動に包まれ、充実した気持ちで映画館をあとにしていた。
そもそもなぜ彼らがプリズムショーをしていて、ジャンプしたら超常現象が起こるのか。
そんなこと知らなくても、プリズムの女神の祝福に大いに感動し、ひれ伏していたのだ。
友人達と一緒にプリティーリズム・レインボーライブ51話を完走してからは、キンプリの登場人物達に、その歩んだきた物語を感じるようになり、私は映画館で感動の涙を流すようになった。
良かった…本当に良かった…あのヒロ様が…極悪顔して色んな感情や環境でぐちゃぐちゃになっていたヒロ様が…このような…
こうして、キンプリを観た後の多幸感は、より強いものとなり、私達は、何度でも映画館に通った。
誕生日上映では、長いオタク生活でも初めての「推しを映画館で祝う」という贅沢を味わい、真っ暗なスクリーンに向かって皆でハッピーバースディを歌うという、狂気の一端を担わせてもらった。
昨年遂に中の人によるライブも催され 、まさに「これが、プリズムのきらめき…!!」という体験をさせてもらった。
そして、キンプリは、もうとうに十年の付き合いを越えた我々友人一同に、新たに「同じ熱量で追いかける大切なもの」をくれた存在でもある。
同じ映画を何度も何度も一緒に観に行き、女児向けアニメ51話完走して一緒に感動してくれる仲間。
こうして文章にしてしまうと、ちょっとヤバイ集まりのようだが、社会人になって、なかなか集まることの難しくなった私たちに、キンプリは、素晴らしいキッカケをつくってくれた。
今も、帰宅すると毎日blu-rayを観ている。
キンプリは、私に元気をくれる。活力をくれる。仲間との楽しい日々をくれる。
プリズムのきらめきは、何でもない日常を眩くし、日々私たちを照らしてくれているのだ。
「あの夜」を越えた私に
「社会人になってから一番辛かったことは何ですか?」
学生によく聞かれる質問だけれど、この質問のとき、私はいつも「ある夜」を思い出す。
小さなビジネスホテルで、自分が世界の誰にも必要とされていないような孤独を感じていた、10年前のあの夜。
新卒で入った会社は、憧れていた「総合広告代理店」だった。
実際何をするのかよく分かってもいなかったのに、大学生の頃の私はとにかく「総合広告代理店」で働きたかった。
そうして入った会社でやっていた仕事は、主に「飛び込み営業」だった。
でも、字面から想像される程、辛いことばかりだったわけじゃない。
小さい会社だったからこそ、営業で受注した後の制作にもメインで携われたし、今でも忘れられない、思い入れある広告物を創らせてもらった。
テレビやラジオといった媒体会社の同期営業達と毎晩のように飲み歩き、初めての「お酒での失敗」含め、面白おかしい夜をたくさん過ごした。
「特別な仕事をしている」と感じていたし、忙しくてハードな日々に酔っていた。
それでも、3年もたなかった。
3年目で本社から他県の支店へ異動になり、友人も知人もおらず、媒体会社からも「よく知らない弱小代理店」としか扱われない中で、飛び込み続ける気力が無くなっていった。
毎日悩み、情緒不安定で、その不安定さは、同期だった恋人にぶつけていた。
恋人なのに、彼の仕事の成功や本社での業務に嫉妬して、「もっと近くで支えてくれないと意味がない!」などと、2年以上も家族以上に支えてくれた人と別れてしまった。
挙句、「近くで支えてくれる人」などと勘違いして、既婚の支店長に靡いていた。
そうして悩みに悩んだ結果、退職を決意。
最後の夜に、本社時代から支えてくれた先輩社員や制作会社の仲間たちが宴をひらいてくれた。
そこで、遂に私は知ったのだ。
「2年以上支えてくれた恋人」も「近くで支えてくれる(などと勘違いした)既婚支店長」も、この場に別の、それも第二・第三の恋人がいる、ということを。
もはや、ドラマにもならないような、汚い色だけ混ぜて真っ黒になった人間関係がそこにはあった。
この場合、女同士でケンカになるパターンがドラマなんかでは多いと思うけれど、
私の怒りや悲しみは元恋人に向かい、そして「‘元’恋人」である限り、今の自分には感情をぶつける権利もないことを感じ、ただただ絶望した。
私もその場の他の女たちも、互いに愛想笑いを浮かべて、「やばーいなんか笑えてくるねー」などと話していた。
悲しんでも怒っても、ただただ自分が惨めになるだけだと、お互いに知っていたのだ。
住んでいた家は、鍵の引き渡しの関係で今晩からもう住めず、次に決まった仕事は来月から。
宴を終えてちっぽけなビジネスホテルに戻る。
隣の部屋から聞こえるテレビの音を聞きながら電気を消すと、
真っ暗な海の底に物凄い速度で沈んでいくような心地になった。
「今の私は誰にも必要とされていない」
圧倒的な孤独で、息もできないような苦しさを感じていた。
憧れていた仕事、騒がしいけど大切な仲間、家族より一緒に過ごした恋人――私の見ていたこの3年弱の景色が、全て虚構に思えた。
それでも、夜はあっさりと朝を迎え、翌月には新しい仕事が私を待ってくれていた。
同じ仕事ではなくとも、前の仕事での経験は、今の私を間違いなく助けてくれている。
人事採用担当となってからは、あの夜の経験すら、一つの人生経験として、ときに私の「引き出しの一つ」となってくれる。
あの夜を迎えたのは、間違いなく自分が幼かったからであり、自分こそがしょうもなかったから、引き起こされた人間関係に他ならない。
そう思えるくらいには時が経った。
今の私は、あの夜の思い出を、自分の引き出しの「甘酸っぱい」コーナーに置き、
時に引っ張り出されても、舌の上で転がして味わうこともできる。
しかし今でもやはり、あの夜は大きな転機だったと感じている。
私が仕事を続けているのは、間違いなく、あの夜の孤独を知っているから。
自分にとって大切なものを失った時、「社会とすら繋がっていない」という事実は、私をいっそう孤独にする。
私は、社会で働く自分が好きだ。そしてそれが、良くも悪くも自分の存在理由の一つになっている。
あの夜、泣くことすらできなかった惨めな私は、真っ暗な海底から抜け出し、
今の私を支える一部として、相変わらずがむしゃらに働く私を、笑って見守ってくれている。
コードギアスと私
一番好きなマンガを聞かれると答えに三日間ほど悩みそうだけれど、
一番好きなアニメを聞かれたら、答えは決まっている。
私にとって特別で、圧倒的な存在のアニメ、それがコードギアスだ。
一期の頃は、まだ大学生だった。
夜中、友人とメッセンジャーで会話しているといつの間にか始まっていて、
なんとなく毎週観ていたアニメ。
「どっちが受けかな」なんてしょうもないツッコミしかしていなかったアニメが特別なものになったのは、
忘れもしない「血染めのユフィ」の回だ。
その前の週も相変わらずメッセンジャーをしていて、いつもの友人と「来週ユフィやばそうだね」なんて軽く話していた。
その翌週。私たちの会話は一時凍りついた。
こんな展開になるなんて…こんなことが起こってしまうなんて…。そのときの衝撃は今も覚えている。
ギアスが暴走したあの回で、私たちもギアスにかかっていたのかもしれない。
ただ、そのときは「凄いアニメだ」と思っただけに留まり、
一期最終回の二話が別放送されたときには新社会人となっていたタイミングもあって、そこまで心を持っていかれるようなことはなかった。
二期が放送されている間も、毎週録画して観ていたけれど、仕事や環境の変化に追われ、なかなか集中して観たり、感想を言い合うようなこともできなかった。
最終回を初めて観たときの自分の心境も思い出せない。
ただ、HDDにはずっと、最終回を残していた。録画データを消せなかった。
まだまだ容量の少ない、DVDしか再生できないHDDには、一年経っても、あの最終話のデータが残り続けていた。
そして、転勤した私は当時の恋人とも別れ、時間を持て余していて、なんとなくHDDに残っていたその最終話を視聴した。
正確には、ラスト二話を残していたので、あの二話を観て、そして、転がり落ちた。
レンタルショップに行って全話を一気に再視聴し、当時の感想や考察をネットで見て周り、スザルル沼にもハマった。
そのことをmixiで書き散らしていたら、一期の頃メッセンジャーをしていたあの友人も転がり落ちてきて、
放送終了から一年経って、二人して物凄いテンションで語り合うようになった。
語り合える仲間ができることは、オタクにとって至上の喜びだ。
しかも、その友人と同じ作品にハマることは数年ぶり、同じCPに至っては初めてのことだった。
当時のギアスを取り巻く腐女子界隈は、放送終了一年などと微塵も感じさせないほど大いに盛り上がり続けていて、
個人主催のCPオンリーも開催された。
友人と二人で東京に行き、「これが本当にオンリーイベントなの!?」と思うような列に並び、
事前に打合せした通り、二手に分かれて薄い本を買い漁った。
買いたかったオリジナルグッズは売り切れてしまい、それどころかパンフレットも途中で売り切れていた。
右も左もギアスを愛し、スザルルを愛する人に囲まれている喜びを感じながら、
薄いのに重すぎる本をまとめていると、友人の用意してきた袋は破れていた。
あの頃、私は人生で最も荒んでいて、とにかく毎日ギアスのことを考えることでなんとか毎日心を保つような部分もあった。
仕事がうまくいかないことを会社のせいにし、初めての恋人と別れた寂しさから駄目な男に媚を売り、転勤先の地で友人もいない。
そんな私が現実を忘れ、没頭できたのがコードギアスだった。
何か考える余地など挟まないスピーディーで予測不可能な展開。
そして何より、傲慢で高潔なルルーシュの生き様。
決して優しいだけのアニメではないのに、あの頃の私は、ギアスがあることで元気でいられた。
それから数年経ち、仕事も私生活も、ある程度自分でコントロールできるくらいには大人になった。
その間もマンガやアニメが好きなことは変わらず、数多くの作品を観て、友人と盛り上がることもあった。
それでも、私も友人も、「一番好きな二次元のキャラクターは」と聞かれたら、「ルルーシュ」と答える。
一期を思い出すときも、二期を思い出すときも、その頃の自分を同時に思い出す。
自分とギアスを切り離して考えることなど、もう出来ない。
何よりも特別で圧倒的な作品。それが私にとってのコードギアス。
年をとってしまったこともあって、もうあんな作品に出会うことはないのだろうな、とぼんやり思っていた。
そんなとき、10周年を記念したイベントがあると知って、件の友人と応募するも外れてしまい、それぞれが映画館でライブビューイングに参加した。
声優さんたちの生アフレコで振返っていると、数え切れないくらい何回も観たシーンで、今も新鮮に哀しくなり、声をあげて泣きそうになる。
それは両隣の知らないお姉さんたちも同じで、ハンカチで抑えながら、皆で涙を流していた。
私も、友人も、隣の知らないお姉さんも、この10年、それぞれの人生を生きながら、心の片隅にはきっと、ずっとギアスがあった。
イベントの終盤、『モザイクカケラ』をバックに、ファンのイラスト作品が流れてきて、それらが一つになり、ルルーシュが形作られた。
そこにはまさに「コードギアスと私」があった。イラストが描けない私の作品はその中には無いのだけれど、確かにその中に私もいた。
あぁ、良いイベントだったな。ずっと好きでいてよかった…。
と感慨に浸っていたらあの発表である。
この年月を、あの完璧に完結した作品と、あのエンディングをもって、寄り添って生きてきたつもりが、復活って!!!
大いに戸惑いもあるが、やっぱこれでこそコードギアスだなぁと思わせてくれる。
もう決まったことなので、楽しみに待ちたいと思う。撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだって、10年前から言われているし。
イベントの感想やら、新作発表に今思うことやらを覚えておきたい、何より「コードギアスと私」に参加できなくて寂しかったので、せめて文章にしたい、
と思っていたのに、イベントからずいぶん日も経ってしまいました。
(今の娘さんたちは「メッセンジャー」とか「個人主催オンリーイベ」とかご存知なのでしょうか。)
とにかく、大きな期待と不安という、いつもの心境で、新作お待ちしたいと思っています。
雨宮まみさんがいなくなってしまってブログを書くことを決めた
大好きなことは大好きだと積極的に発信する、そう心に決めるキッカケになる出来事だった。雨宮まみさんが、亡くなってしまったのだ。
まだ「亡くなった」と書くことにも抵抗がある。それくらい、現実味がない。私はただの一ファンだったので、直接の交流などあるわけがないし、本棚にもネットにも、彼女の文章が溢れている。フォローしていたツイッターでも、つい先日の彼女の呟きを見ることが出来る。
だから、まだ信じられない。
「一番好きなライターさん」というよりも、「一番特別なライターさん」だった。
大学を卒業してから働き続けて、現在アラサー。結婚は経験したけれど、離婚も経験した。独り身になった今も、実家に帰ることは年に数回だけ。
そんな私が、日々の生活で時々感じる「イライラ」や「もやもや」。それらを言葉にしてくれて、「怒っていいんだ」「哀しくなって当然なんだ」と思わせてくれる人が、雨宮さんだった。
デビュー時から追ってきたわけではない。雨宮さんのことは、この数年で知って、いつの間にかその文章を追いかけるようになり、この一年は特に、いつも彼女の文章で励まされてきた。
自分が結婚に悩んでいた時期は、彼女の痛いくらい刺さってくる文章が読めなかったこともあった。思えば、彼女の文章を見ないようにすることは、自分の「もやもや」と向き合っていないことも表していた気がする。
そうして色んなことに蓋をしたまま結婚した私は、数年でやっぱり離婚した。その離婚前後から、また雨宮さんをよく読むようになっていた。
離婚したとき、スッキリした気持ちが大きかったけれど、独りになる不安もやっぱりあったし、世間的に見て「かわいそう」と思われる状況になった自分のことも感じていた。
離婚できてよかった、仕事があって良かった、と心底思っている。でも、「女は仕事だけでは幸せになれないんだよ」と、親身な様子でわざわざ言ってくれる人はいるし、自分でも時々、未来に対する漠然とした不安を感じる。
そうして、そんな不安を感じる夜や、‘親身な人’にもやもやしてしまった夜、私は雨宮さんの文章を読む。
雨宮さんは時々、雨宮さんがすごくかっこわるかった夜のことも書いてくれる。大人になってもすごくかっこわるい夜もあるもんだ、ってことを書いてくれる。私は泣き笑いで「そうそう、やっぱりそうですよね」なんて思う。
会ったこともない、本当はずっと遠い雨宮さんのことを、まるで「時々会うカッコイイ女の先輩」みたいに思う。辛い夜は一緒に飲みに行って、先輩のやらかした話や先輩も感じる世間の辛さを聞かせてもらい、自分もこのまま頑張ろう、と思って眠りにつく。そして朝が来たら、仕事に行く。目がパンパンに腫れているけど、先輩も今日も頑張っているから。私にとって雨宮さんは、そんな存在だった。
それなのに、この世からいなくなってしまった。もう、雨宮さんの新しい文章を読むことはできない。
亡くなられたと知った翌日の夜、雨宮さんを全く知らない友人に付き合ってもらい、散々飲んで、一人で勝手に酔っぱらい、どういうところが好きだったかを語り、声を出して泣いた。ぐちゃぐちゃになった顔に友人がマスクをつけてくれて、まだ早かったので電車に乗せられた。そこでも座った途端泣きだしたら、上から友人のハンカチが乱暴に降ってきた。
友人は呆れながらも家まで送ってくれて、眠りながら泣く私を見届けてくれたらしい。らしい、というのは、いまいち覚えていないからで、友人からその話を聞いたとき、私は笑いながら「雨宮さんのコラムに出てきそうな話だ」と思った。そしてまた泣きそうになった。
私は雨宮さんより、きっと少しお酒は強い。ワインだったら一本くらいなら空けられる。だから、一軒目で、大した量も飲んでいないのにそんなに酔ったのは、哀しい感情だけでなく、語っている自分に酔っていたのかもしれない。そう考えると、自己嫌悪感に襲われる。「哀しい」という感情にだって、「今後は自分のもやもやと自分で向き合うしかなくなった」ことや恐れも内包していた。なんて自己中心的な奴なんだろう。でも、本当に哀しくて、悔しくて、恐くて、どうしようもない喪失感に襲われていたのだ。
そんなとき、とあるサイトで雨宮さんのニュースが雑にまとめられているのを見てしまった。いわく、「知名度はないが、その死因で注目されている」。
怒りで自分のスマホを叩き割ってしまうかと思った。
知名度がない!?死因のせいで注目されている!?ふざけんな!!私のように、いやもっと哀しんでいるファンは大勢いる!!雨宮さんが、どれだけの女性を救ってきてくれたと思っているんだ!!!!
でも、すぐに気づいた。私自身、「雨宮まみさんの書かれる文章が大好きだ」と、インターネットでも一度も言ったことがない。
雨宮さんが心の支えで、そっと追いかけている女性は、きっと表面化しているよりずっとずっと多くて、でもそっと追いかけてきたから、知られていないこともあるんじゃないか?それがこんな下品な書かれ方をされてしまう一因にもなっているんじゃないか?
そして思った。好きなことは好きだと表明していこう。どんどん言っていかないと、世間にだって「人気なんだ」と気づいてもらえないかもしれない。何より、どんな方法でも、「好きだ」と言ったことがなければ、本人に届くことなんて絶対にない。
それで私はブログを始めることにした。雨宮さんはもういなくなってしまったけれど、こんな風に感じて荒れたファンもいた、ということをまずは表明したい。そしてこれからは、そのブログでどんどん好きなことを好きだと書いていこう。私が好きなことは、本とマンガとアニメと下ネタなので、下品なブログになるかもしれないし、これを見た同じ雨宮さんファンが、「こんな奴と一緒だと思われたくない」と思うかもしれないけれど、とにかく好きなことを書いていきたいと思う。
そして、まだまだ雨宮さんの文章も読み続ける。私の読んだことのない文章もたくさんあるし、同じものも何度だって読む。雨宮さんをきっかけに知った音楽を聞きながら、雨宮さんの文章をたくさん読んで、これからもファンであり続ける。だって、今もまだ辛すぎるから。辛い夜には、雨宮さんを読んでいたのだから。まだまだ夜を雨宮まみさんと過ごしたい。朝が来るまで。朝が来るまで、終わることのない雨宮まみを。